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文化のみち橦木館

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文化のみちについて

名古屋市は、名古屋城から徳川園まで、東西3キロのエリアを「文化のみち」と位置づけ、歴史遺産の宝庫として、環境整備や施設整備を進めてまいりました。ほぼ中央にあたる「白壁・主税・橦木町並み保存地区」は江戸期、中級武士が暮らした区割りに、近代には起業家たちの邸宅などが建てられ、今もいくつかが残ります。
名古屋は第二次世界大戦で65回の空爆を受け、市街地は焦土化しました。名古屋城、熱田神宮など歴史的資産の多くが失われた中、奇跡的に焼け残ったこの地区は、歴史をつなぐ意味でも非常に貴重なエリアとなっています。

武家屋敷から近代産業の町へ

江戸時代
江戸時代
江戸時代、名古屋城の東に位置したこの地域は、城から遠からず近からずの範囲で、中級武士の住む屋敷が立ち並んでいました。
1区画五百から六百坪ほどの区割りは南北に細長く、それらが整然と並び長い塀が続く街並みを形成していました。
明治維新後
明治維新後
江戸幕府が終わり武家社会は崩壊したが、城下町の枠組みは、新しく興された近代産業の工場や起業家の邸宅、新興宗教であるキリスト教の施設(カトリック主税町記念聖堂)や学校(金城学院高等学校)など新しい勢力によって受け継がれ、これまでの町並みと街区割りは継承されました。
陶器産業の町、瀬戸や多治見の産地から品物を運ぶ交通の便と、保管場所の確保ができたことからこの地域は輸出陶磁器の中心地となりました。明治後期に陶磁器の世界的ブランド「ノリタケ」の前進・森村組を創設した森村市左衛門がこの地区に邸宅をかまえ、全国の絵付師を集め工場(森村組工場跡地)を作ったために多くの陶磁器関係者がこの地域に住みました。
大正から昭和
大正から昭和
大正時代から昭和初期に建てられた建築物の中に、輸出陶磁器商の春田鉄次郎邸・井元為三郎邸(文化のみち橦木館)、そして当時名古屋陶磁器貿易商工同業組合の事務所であった名古屋陶磁器会館が今に残る。また国産初の自動織機を発明した豊田佐吉とその一族(旧豊田利三郎邸(門・塀)、旧豊田佐助邸)、知多半島で代々酒造業を営む盛田家の屋敷(盛田邸)があり、ソニー創業者・盛田昭夫はここで生まれ育ちました。
三井銀行名古屋支店長・矢田績は自宅の一部を「橦木倶楽部」として誰でも出入りできる空間として開放。矢田は後輩である福沢桃介に名古屋電灯の経営改革を依頼し、これを機に桃介は「電力王」と称されるようになります。女優・川上貞奴が暮らした屋敷(文化のみち二葉館)の1階大広間は中京財界のサロンとなっておりました。
文化のみちは、こうした背景の中人と人が交わり、当時第一線の文化がはぐくまれた場所なのです。
現代
現代
現在この地区は、市内に残された貴重な歴史的町並みを保存するため、名古屋市町並み保存要綱により、「有松」「四間道」「中小田井」とともに「町並み保存地区」に指定しています。
武家屋敷だったこの地域に近代産業の波が押し寄せ、それに伴い新しい宗教や学問が人々に広がる、まさに日本の歴史が感じられる「文化のみち」を、名古屋市をはじめ多くの市民・ボランティアの方が守り、後世へつないでいこうとしています。
「文化のみち」では、それぞれの施設や個人が事業を実施し、また11月3日の文化の日を中心に地域全体で「歩こう!文化のみち」というイベントを企画しております。アーティストの個展や演奏会、講演・スタンプラリーなどなど。皆様もこの地を訪れて、古きよきものに触れながら多様な文化を感じてみてはいかがでしょうか。

周辺観光

橦木館周辺の散策マップをご用意いたしました。
ぜひ、名古屋の歴史ある文化をめぐってみてください。

PDFダウンロード(PDFファイルサイズ:221KB)

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