旧井元為三郎邸である文化のみち橦木館は、2階建ての洋館、平屋の和館と東西2棟の蔵に、庭園に中に建つ茶室で構成されております。
洋館には輸出陶磁器の商談を行うため、外国人バイヤーなどを招待したといわれており、2階には洋式トイレ・バスタブ・娯楽室などがあり、
当時は貴重だったステンドグラスが贅沢に使われています。
第2次世界大戦(1939年(昭和14年)9月1日から1945年(昭和20年)9月2日まで)では、名古屋市内でも空爆を受け市街地は焼け野原になる中、橦木館の目の前にある山吹谷公園にあった、旧第三高等女学校も爆撃で42人の尊い命が奪われるという悲しい出来事がありましたが、橦木館は建物・ガラスが奇跡的に残りました。
そして令和の現在も、文化のみち橦木館は都会のけん騒を忘れさせるよう静かに佇み、大正末から連なる記憶を今へ伝えています。
橦木館の歴史
- 1996年(平成8年)
- 名古屋市指定有形文化財に指定。
- 2002年(平成14年)まで
- 市民グループが借り上げて「橦木館」の名前が付けられるとともに設計事務所などが置かれ、演劇やコンサート、ファッションショーなど各種イベントが行われる文化サロンとして使用された。
- 2004年(平成16年)から
- 再公開すべく立ち上げられた市民グループが維持・管理に携わり、一般公開と貸室が行われるようになった。
- 2007年(平成19年)
- 名古屋市が取得し景観重要建造物に指定。
- 2009年(平成21年)7月17日より
- 指定管理者制度を導入し再公開しました。
館内では、文化のみち関係の展示のほか貸室業務を実施し、市民の文化活動の場を提供しています。
井元為三郎とは
井元為三郎の処世訓は、「幸福は我が心にあり」。
書画骨董を愛し、好きなことを存分に行った、豪放磊落(ごうほうらいらく)な人物であったといいます。
- 1874年(明治7年)
- 名古屋市熱田区に生まれた。
- 1890年(明治23年)
- 16歳で陶磁器業界に入る。
- 1897年(明治30年)
- 名古屋市北区に井元商店を設立。
- 1909年(明治42年)
- サンフランシスコに貿易会社を設立。
- 1920年(大正9年)
- シンガポールやビルマにも進出して東南アジア貿易にも乗り出す。
- 1921年(大正10年)
- ニューヨークに貿易会社を設立し積極的に海外進出を図る。
- 1924年(大正13年)
- 名古屋陶磁器貿易商工同業組合の組合長に就任。
- 1925年(大正14年)
- 名古屋市東区橦木町2丁目に自宅の建設(現文化のみち橦木館)を開始。
- 1932年(昭和7年)
- 井元為三郎の提案で建設された、名古屋陶磁器会館が竣工した。
- 1941年(昭和16年)
- 陶磁器会館が建立され、井元為三郎翁の銅像も建つ。
台座には「名古屋陶磁器会館の建設を完了し、終始本組合(名古屋陶磁器貿易商工同業組合)の為功あり...」と刻まれております。
- 1945年(昭和20年)
- 71歳で亡くなった。
橦木館の名前の由来
橦木館(しゅもくかん)の名前の由来を知るには町名の歴史をさかのぼる必要があります。
しゅもく(撞木)とは広辞苑によりますと「仏具の一つ。鐘などを打ち鳴らす棒で多くはT字型となす」又「撞木サメというサメの頭はT字型をして目がその左右にあります」など書かれています。
町並み保存地区にあるしゅもく町は徳川家康が名古屋城築城の折、城の東側にある武家屋敷の町割りに付けられた町名で、外堀の東、南北に走る竪杉町で行き止まりとなり、T字型をなしていることから、それが鐘を打つ撞木に似ていることに由来しています。
ただし表記については、撞木町(手偏)、橦木町(木偏)や鐘木町(金偏)という字も各時代の地図等で使用されていました。しかし、昭和55年以降は住居表示により「橦木町」(木偏)に統一整理されています。
そのため橦木(しゅもく)館も木偏の"橦"を使用しています。
現在パソコンの普及により"しゅ"を日本語変換したときに"撞"と先に候補表示されるのは上記によるものです。(変換最後の単漢字から探すと"橦"という木偏の文字を探すことができます。)